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夏井いつき先生による特別コラム
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いまのとこ残暑2021.09

いまのとこ残暑

「SNSやらメールやら実に便利な世の中になりましたが、やはり心のこもった手紙や葉書は嬉しいですね」
なんて最もらしいことを言いつつも、筆不精を自称する人は多い。その理由は、聞かなくてもだいたい分かる。
一つ目は「時間がない」。この理由は、私にも当てはまる。かつては、それなりにお礼の葉書とかもマメに書いてたんだけど、今は「そんな時間があるなら原稿の〆切を守って下さい」と、グッサリ釘を刺される状況下。やはり「時間がない」と言い訳するしかない。
二つ目の理由を持つのは、「時間はあるけど……」と口ごもる人々。時間もあって気持ちもあるのなら、書きゃいいだろ! と言いたいところだが、この人々はこう言う「最初の時候の挨拶のところで、躓いてしまうのです」と。
嗚呼、これも分からないではない。手紙や葉書の作法に従うなら、時候の挨拶から書き出さねばならぬ。 ネットで調べると、「残暑の候」「残暑が続きますが」「立秋とは名ばかりで猛暑が続いておりますが」など数々の例文が並んでいる。この中からそれっぽいのを選べばいいだけだろと思うが、人々はこう言う。
「『残暑の候』と書いた後、どう続けたらいいのか、迷ってしまう」と。ええーっ⁉ それならもうどんな葉書も「前略」にすりゃあいいだろ! と反論したら、
「『前略』の後、どう書いたら……」と言われた日にゃあ、こっちも言葉を失う。

いまのとこ残暑

自称筆無精の人々にオススメしたいのが、「はがき俳句」だ。
俳句は短いから、葉書の面積にフィットする。お礼や近況報告がわりの一句をデカデカと書けば、それなりにさまになる。時候の挨拶なんて要らない。だって季語があるのだもの。そして、俳句が書かれているだけで、ちょっと知的な匂いもする。楽勝にして一石三鳥ぐらいのお得感満載なのだよ。
が、自称筆無精族は「そんなこと言われても俳句作る方がハードル高い!」と、さらに言い募る。私は大袈裟に溜息をつく。おいおい、君らは俳句のメカニズムを知らないから、そんなこと言ってるだけだよ。
例えば、近況報告バージョン①を伝授しようか。

いまのとこ○○○○○○○○○残暑

「いまのとこ」で俳句の上五がすでに出来ている。お尻の5音を下五と呼ぶが、そのうち3音を使って「残暑(ざ・ん・しょ)」と季語がすでに入っている。後は、○の音数を使って近況を書けばよいのだ。
そう、俳句は言葉のパズルなのだよ。

   いまのとこ彼女はできぬまま残暑
   いまのとこ会社潰れてない残暑
   いまのとこ離婚もせずにいる残暑

季語「残暑」はマイナスの印象が強いので、あまり景気のよくない近況報告書くのに適している。九月になっても暑い日が続く近頃ではなおさらだ。ちょっと残念な近況報告でも、季語の力で俳句にしてくれる。
「ざんしょ」という響きが、『おそ松くん』のイヤミみたいな口調になるので、ほのかなユーモアも漂う。ね、カンタンにできるでしょ。
次回は、近況報告バージョン②を伝授。乞う御期待。

いまのとこ残暑

このごろは秋うらら2021.10

このごろは秋うらら

前回の近況報告バージョン①に続く今回は、良い近況報告をイヤミなく伝えるバージョン②を伝授しよう。
差出人にとっての良き報告は、良き匙加減で伝えるのが肝要だ。自慢がほんの微量でも過ぎると、受取人の心に苦いさざ波を立ててしまう可能性もある。
そういう意味でも、たった十七音しかない俳句はちょうどいい。必要以上のことは書けないけど、要点だけをほのぼのと書ける。微妙に意味が曖昧になるのも、この場合は得策となる。

このごろは○○○○○○○秋うらら

これが基本型だ。「このごろは」ですでに上五が出来ている。「秋うらら」とは、秋なのに春のような麗らかな日和のことを意味する季語。○の部分に良き報告を書くだけで、この季語が微笑ましい句にしてくれる。それが季語の力というヤツなのだ。

   このごろは酒も減らして秋うらら
   このごろは営業順調秋うらら
   このごろは妻を杖とし秋うらら

さらにもう少し自由度を上げることもできる。上五中七の十二音を使って、近況を詳しく述べるパターンだ。

   二人目の孫も産まれて秋うらら
   長男に嫁きてくれて秋うらら
   フラダンス習っています秋うらら

自由度を上げるという意味で、一番重要な働きをするのが季語だ。仮に、こんな近況報告を書いてみたとする。

   ひとりごと増えております秋うらら

ひとりごとが増えていることを、「これも老化かしら」と笑うニュアンスになっているのは、下五「秋うらら」の力だ。この季語の本意(季語の核をなす意味)が、上五中七のフレーズまでもを明るく彩ってくれるのだ。試みに季語を替えてみるとその違いが分かる。

   ひとりごと増えております鰯雲
   ひとりごと増えておりますそぞろ寒

「鰯雲」はしみじみと見上げる視線。いかにも秋らしい鰯雲が空を覆っている。ひとりごとが増えている自分に苦笑している感じだ。
「そぞろ寒」は、秋のうちに感じる寒さを意味する晩秋の季語。そぞろ=漫ろの意で、それとなく寒い、わけもなく寒いというニュアンスになる。負の感情がぐっと重くなる季語だ。
さらに表記文体を替えてみよう。

   独り言増えてをりけりそぞろ寒

孤独の感情がぐっと濃くなっているのが分かるだろうか。こんな葉書が近況報告として届いたらちょっと心配するよね。
でも、「ひとりごと増えております秋うらら」ならば、あらあらワタシもよ~と笑う程度に受け止める。
ね、季語の力ってスゴイでしょ。もっと別の言い方をすれば、季語って便利。ごちゃごちゃ書かなくても季語が、時には楽し気に、時には悠々と堂々と切々と、私たちの感情を代弁してくれる。
言葉のパズルという型を使い、季語の力を借りれば、誰でも自分の心を表現できる。それが俳句なのだよ。

このごろは秋うらら

喪中欠礼菊白し2021.11

喪中欠礼菊白し

物事を早め早めに準備しないと気持ちが落ち着かない、という人たちがいる。私の友人にも早々族がいて、十月が終わる頃にもう去年の年賀状の束を取り出し、やたら気忙しがってたりする。
原稿ですら、〆切当日になって書きだすことの多いワタシとしては、早々族の爪の垢を煎じて飲みたいぐらいだが、そういう人々は潔癖清潔族でもあるから、爪に垢をためていたりはしない。

早々族の友人からメールが届いた。
「母が今年亡くなったので喪中葉書を用意してるんだけど、俳句でやれるかな」との相談である。今まで、どんなに俳句を勧めてもガンとして聞く耳を持たなかった友人からの申し出だ。勿論、出来るよ! と即答する。

喪中欠礼○○○のような母でした

字余りになるが上五に「喪中欠礼」と置けば、何の目的の葉書かは一目瞭然。それ以上のことを書く必要はなくなる。○○○のところに、「母」のイメージの季語を入れるだけで、俳句になる。
例えば、植物の季語に喩えればこんな感じ。

   喪中欠礼ダリアのような母でした
   喪中欠礼椿のような母でした

三音の植物ならば音数的にぴったり入る。植物に喩えるとどんな人だった? と問うと、「うーむ、菊かな。白菊みたいな凛としたところもあった」との答え。俳句は言葉のパズル。音数調整をすればいいだけだ。

   喪中欠礼真白き菊のような母

もう少し、母についての情報を入れたかったら「喪中欠礼」を前書きとして、五七五の外に出すこともできる。

喪中欠礼    ○○○○○真白き菊のような母

この○の部分に、年齢・風貌・職業・性格など様々な付属情報を入れることも可能なのだ。

   齢九十真白き菊のような母
   教壇の真白き菊のような母
   声凛凛真白き菊のような母

九十歳を超えた長寿であり、元音楽教諭であったお母さんを思いつつ、友人が考えた上五だ。この五音分こそが、お母さんならではオリジナリティであり、生きた証のリアリティでもあるのだ。

   喪中はがき全て書き終え菊白し

なんと、早々族の友人から、最近届いたメールに添えてあった一句。彼女もやっと俳句の国の扉を開いてくれたかと嬉しくなった。

喪中欠礼菊白し

あらたまのこむらがえり2021.12

あらたまのこむらがえり

さて、年賀状に添える一句の話である。
これまた杓子定規に考えてしまうと、一歩も前に進めなくなる。「年賀状に書けるような立派な句は作れない」「一年の計を象徴するような句はどうやって作ればよいのか」など、往々にして皆さん望みが高すぎるのだ。
そもそも、どなたかからの年賀状に立派っぽい句が書かれていても、皆さん「あ、俳句だな。なんて書いてあるのかな。なんか格調高そうだな。意味はよく分からないな」で終わってしまうのではないですか?
だいたい、書く側も、「年賀状なんだから、恥ずかしい句は載せられない。これぞという句をヒネり出さねば!」と、いつも以上に頑張って作る。出来上がった中で、最も格調高そうな句を載せるので、俳句のハの字も知らない人が、年賀状を受け取っても「なんか立派そう……」で終わってしまうのだ。
年賀状とはいえ、何が書いてあるのか分からなければ、ただの生存証明書に過ぎなくなる。せっかく年賀状を出すのだから、差出人の近況がほんの少しでも分かれば、それだけで受け取ったほうは、ほのぼのとした気持ちになれるのだ。

   あらたまのこむらがえりでありにけり  夏井いつき

ずいぶん前の年賀状にこの句を載せたことがある。中には「大丈夫ですか」と寒中見舞いを返してくれた人もいれば、「笑っちゃいました」と後日の話のタネにしてくれた人もいる。年賀状に載せる俳句ってこの程度でいいのだよ、と思うのだ。

   あらたまの○○○○○○○でありにけり

「あらたまの」は「年」の枕詞。本来ならば「あらたまの年」と続くのだが、枕詞だけでその後の言葉をイメージさせるという俳句的強引な手法だ。この○の部分に近況を書けば、年賀状に載せる俳句もいっちょ上がり! ちょろいもんだ。

あらたまのこむらがえり    あらたまの夫婦ゲンカでありにけり
   あらたまの空手チョップでありにけり
   あらたまのパチンコ通いでありにけり

自由度をあげたいなら、下五も好きなように使えばいい。

   あらたまの四人目の孫待つ日かな
   あらたまの改築終えし小さき居間
   あらたまの酒をこぼしてしまいけり

ほろ苦かったり、笑ったり、目出度かったり。年賀状の近況報告は、そういうのが喜ばれるのではないかと思うのだよ、ワタシは。
そして、出来上がった句は、葉書いっぱいに書く。字は下手でいいから、とにかくデカく書く。堂々と書けば風格があるように見えてしまう。自分の名前のアタマ文字を、ゴム版で彫って、ワンポイントの赤を押すと、尚更カッコよくなる。

   あらたまの頭文字なるゴムはんこ

それでも尚且つ、己の直筆に自信がないとか、年賀状の枚数がハンパないとか、そういう場合も慌てる必要はない。万事堂々と「筆ぐるめ」に頼ればいいのだ。

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