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「初」の花咲く新年の季語たち2022.12
まだまだ気忙しい十二月を過ごしている皆さん。
やるべきことは山ほどありますが、それら全部を滞りなく済ませたとしても、中途半端に終わったとしても、新しい年は、誰にも平等に同じタイミングでやってきます。しばし手を止め、一息ついて、来たるべき新年の花咲く季語たちに、思いを馳せてみませんか。
新年の季語には、「初」の一字がついたものが沢山あります。
うれしさにはつ夢いふてしまひけり 正岡子規
昔の人たちは「良い夢は話すな」と言っておりました。その代わり「悪い夢は話せ」と。うちの爺さんが「『話す』は『離す』やから、エエ夢は黙っとくんや」と、蘊蓄を垂れていたのを懐かしく思い出します。子規さんも良き初夢をみたのです。あまりにも嬉しかったからついつい話してしまったよ、という微笑ましい一句。
初景色整ふまでの二度寝かな 高橋睦郎
昨日と同じ景色なのに、年が改まったその日はいつもと違うものに感じられる。それが「初景色」です。「整ふまで」とは、うっかり暗い内に目が覚めてしまったか、はたまた年寄りの早起きか。いずれにしても「二度寝かな」の詠嘆が、飄々として愉快です。
初暦大きく場所をとつてをり 星野椿
新しい暦が掛けてあるのですが、思いの外、場所を取ってしまいました。自分が気に入って買った美しい風景写真カレンダーならば、まっいっか、で済ませるのでしょうが、家族の誰かの趣味のもの(ゴルフとか鉄道とかアイドルとか)ならば、なんと邪魔な! と思うのかも。それもまた、家族の新年アルアルですね。
初電話巴里よりと聞き椅子を立つ 水原秋櫻子
離れて住む家族からの初電話は、心楽しいものです。それが「巴里より」ともなれば、慌てて椅子から立ち上がる。受話器を囲む家族の表情までもが、ありありと見えてくる作品です。
「初」の一字は、年の初めの意だけでなく、心の華やぎも感じさせます。さて、新年には、どんな「初」を花咲かせましょうか。
「やることリスト」のような季語たち2022.11
十一月に入ったかと思うと、あっという間に十二月。嗚呼気忙しいと嘆いているうちに大晦日がやってくる。歳時記の冬の部、人事生活の頁には、まるで年内「やることリスト」のような季語たちがずらりと並んでいます。
世のつねに習ふ賀状を書き疲る 富安風生
年賀状を買い印刷所に頼むだけでも面倒くさく思うのに、デザインを考え自分で刷る人たちはほんとにスゴイと感心します。見事な筆書きの年賀状は神業に近いと思うくらいです。そんな私にとって、下五「書き疲る」の正直さは共感以外の何物でもありません。「世の常に習ふ」にも小さな溜息が感じとれて、ちょっと笑えます。
癇癪の妻の凜々しき年用意 宮本由太加
一言で「年用意」といっても、大掃除、年末の買い出し、御節の算段、お飾りやらお餅の手配等々、数え上げると切りがありません。「癇癪の妻」という措辞には、世の妻の一人でもある私としては(それなりに身に覚えがあるものだから)一瞬ムッとしますが、その後の「凜々しき」でちゃんと敬意を取り戻す。これもまた、ある時代のシャイな夫たちの愛情表現なのでありましょうね。
注連飾る間も裏白の反りかへり 鷹羽狩行
せっかくの注連飾りなのに、あっという間に裏白が反りかえってしまう。そんなことに小さな癇癪を立てていては、年用意は終わりません。「裏白の反りかへり」は、体験と観察から生まれるリアリティ。こんなところにも生きの良い俳句のタネがあるのですね。
投函の音もて仕事納とす 山崎ひさを
官公庁や会社は、十二月二十八日を仕事納めとするのが一般的かと思います。年内最後の請求書でしょうか、通知書の類でしょうか。ポストの底に落ちるかすかな「投函の音」が、仕事納めの合図。一年のあれやこれやの感慨を胸に家路をたどります。
年末の慌ただしさにただ身を任せるのではなく、定番のこれらの作業も各々季語であったかと、手をとめてみるのも一興ではございませんか。
季語「十月」の句を味わう2022.10
十月は多彩な表情を持つ月です。初旬は雨の日が続いたり、台風が次々に発生したり。中旬になれば実りの秋を迎えます。
馬肥ゆる秋であり、食欲の秋でもあります。さらに下旬になると、紅葉が日本列島を彩ります。朝夕の冷気は、冬が近づいている証です。
十月のしぐれて文も参らせず 夏目漱石
「しぐれ」は初冬の季語。急にぱらぱらと降ってはやむ雨です。季重なりを成立させる方法の一つに、季語同士を合体させる技があります。「十月」と「しぐれ」を合わせることで、冬の近づく雨としての季感を共有できます。十月の時雨が降ったりやんだりしていて、手紙も送らないままであるよ、という一句。明治の頃の「文」という交流のもつ味わいもしみじみと感じられます。
十月の賽銭箱を蝮出づ 福田甲子雄
「蝮」は夏の季語です。賽銭箱に小銭を投げ込んだら、蝮が出てきたのでしょうか。やってくる冬に備えて、蝮もねぐらを探していたのかもしれません。
これも季重なりですが、この句の場合は、賽銭箱から出てくる蝮という生き物を配することで、映像を持たない時候の季語「十月」を表現しているのです。
少しうれし十月の岬思ふとき 加倉井秋を
俳句では、嬉しい悲しいなどの感情語をそのまま書かないことが、一種の定石ですが、この句のように「少しうれし」と率直に書くことがタブーというわけではありません。
故郷の岬でしょうか。あの「十月の岬」を思うとき、ほんのりと嬉しい気持ちになるよ、という一句です。「少し」の一語が、ほのぼのとした心持ちを伝えます。
私は、この句を目にする度に、我が故郷愛媛県愛南町の高茂岬を思い浮かべます。十月の終わりから十一月にかけて、岬には一面に野路菊が咲き広がります。海風に揺れる野路菊と爽秋の波音が、私にとっての少し嬉しい「十月」の光景なのです。
季語「九月」の句を味わう2022.09
九月は、一般的には「初秋」という感覚ですが、暦の上では「仲秋」。秋という季節を三つに分けたうちの真ん中にあたります。
九月の地蹠ぴつたり生きて立つ 橋本多佳子
「蹠(あうら)」は足の裏です。中秋とはいえ、暑さの残る日もありますが、秋の大地の実りが進んでいく九月。そして台風が多くなってくるのも九月です。「蹠ぴつたり生きて立つ」は、九月という季節を謳歌する、あるいは日々を生きるために立つ、とも読めます。
朝顔のべたべた咲ける九月かな 長谷川かな女
「朝顔」は初秋の季語。「九月」は仲秋の季語。一句に季語が複数入る季重なりです。初心者にはおススメできない難しい技法ですが、有名俳人の作品の中には、季重なりの秀句が 案外多いのです。
二学期が始まる頃になっても朝顔はまだまだ咲きます。初秋の季語「朝顔」が咲き続けるさまを「べたべた」と表現し、そんな「九月」であるよと詠嘆します。つまり、主たる季語は「九月」であり、映像を持たない季語「九月」に映像を添える役目をしているのが、脇役の季語「朝顔」であると解釈すればよいでしょう。
「九月」という映像を持たない時候の季語を表現するために、こんな出来事を取り合わせた句もあります。
九月はじまる無礼なる電話より 伊藤白潮
誰からかかってきたものだとか、内容はどうだったかとか、そんなことをいちいち書いていると、十七音を溢れてしまいます。ですから、わざと「書かない」のが俳句の勝負の仕方なのです。
「無礼な電話」って何? そこから読者の好奇心が動き出します。「無礼なる電話」から始まった九月は、さらにどんな出来事が勃発していくのかと想像は広がっていきます。この一句で短編小説が幾つも幾つも書けてしまうのではないかとも思います。貴方は、どんな「無礼な電話」を思いますか。季語「九月」をキーワードに想像してみましょう。読み解く楽しみもまた俳句の大きな魅力です。
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