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第1回 2021年 9月~12月連載
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第6回 2024年 2月~ 8月連載
「マスク」は冬の季語か2024.11
最近、こんな質問に遭遇します。「コロナのせいで、年中マスクをつけるようになりましたから、『マスク』は冬の季語ではなくなったんですよね?」
結論から申し上げますと、「冬の季語ではなくなった」と決めつけるのは早計です。(人それぞれ考え方にもよりますが)年中各地を旅している私たち夫婦は、旅の荷には必ずマスクを入れておりますし、折々必要に応じてマスクを使い続けています。
が、その現状をもってしても、「マスク」が冬の季語であり続けていることは否定できないでしょう。
例えば、スーパーに行けば一年中「トマト」も「胡瓜」も売っていますが、歳時記にはどちらも夏の季語として載っています。栽培技術の発達で年中食べることはできるようになったけれど、元々は夏に収穫される野菜であった事実は、これらの季語の本意として記録されるべきものです。
「マスク」も同じで、(コロナのせいで季節感が揺らいだ思いはありますが)季語「マスク」の、寒気を避け、流行する感冒予防のためのグッズとして使われ続けてきた事実がなくなるわけではありません。ですから、冬の季語として残されるべきだと考えます。
歳時記には「種痘」も晩春の季語として載っています。種痘は、天然痘が撲滅した後も、その病気が存在していた事実の記録として、歳時記に残っているのだと、私は理解しています。
実は、コロナ以前に「春のマスク」という新しい季語が生まれるかもしれないと予想したことがあります。花粉症の人口がどんどん増えていき、春になると会う人会う人「もう症状でましたか?」がご挨拶になったと実感していた頃のことです。
理屈垂れる春のマスクを顎にして 夏井いつき
この句を作った後にコロナが流行しました。「春のマスク」という新季語の出現にブレーキをかけたものがあるとすれば、コロナという流行病に他ならないかもしれません。
「爽やか」の謎2024.10
一体いつまでこの大残暑が続くのかと、溜息をついていた人も多かったはずです。玄関を開けると、熱気と湿気の壁が立ちはだかっていて、そこに躰を割り入れていくかのような感覚に立ち向かいながら、九月の大半を過ごしてきました。
爽やかに娘にいひ負けて掃きつゞけ 星野立子
口が達者になってきた十代の娘と読むか、年老いた母を叱る娘を思うか。想像する娘の年齢が変わってくると、一句の味わいも変わってきます。私は前者の読みを選びます。いっちょまえに生意気な正論なんか言ってきたりして……と思いつつも、その娘の成長がどこかちょっと嬉しい感じ。
「爽やか」という秋の季語を取り合わせたのは、そんなニュアンスの表現でないかと。
爽やかや何から話そ何聞かう 高木晴子
誰と会っているのでしょう。久しぶりに実家に戻った娘でしょうか、何十年も会ってなかった親友でしょうか。「爽やかや」は、秋という季節の到来への詠嘆でありつつ、「何から話そ何聞こう」という時間への期待と喜びをも表現しているのです。
飲み友達の一人であり句作も楽しむ小説家夢枕獏さんから、こんな質問をされたことがあります。「『爽やか』って季語は、形容動詞の語幹ですよね。なんで、俳人たちはそれを季語として使ってるんですか、変じゃない?」と。確かに、「麗か」「長閑」など形容動詞の語幹(活用語尾を取り除いた変化しない部分)が季語になっているものは外にもあります。
そんなこと考えたこともなかったので、「そういうもんだと飲み込んで下さい」と、強引な返事で押し切ってしまいました。が、これもちゃんと調べてみたら面白いかも~! と考える気になったのは、今朝の爽やかな風を味わったからかもしれません。
野分つれづれ2024.09
第二十七回俳句甲子園が無事終了した翌日、台風十号の動きを警戒して松山を出発。仕事先の北海道へ移動しました。台風が来る度に、つくづく四国は島なのだと思います。「飛行機が飛ばなくても、本州と四国は三本の橋で繋がれているのでは?」と問われることもありますが、実は、橋は暴風に弱く、いち早く閉鎖されてしまいます。飛行機はギリギリまで飛んでくれる重要な交通機関なのです。
吹き飛ばす石は浅間の野分かな 松尾芭蕉
季語「野分」とは、秋草の野を吹き分ける強い風。主に台風によるものですが、「野分」という字面も「のわき」という響きも、寂び寂びとした情趣があります。勿論「台風」も季語ですが、気象用語として日常的に目にしますので、情趣というよりは情報のイメージが強いかと思います。同じ現象を意味する季語ですが、これらを使い分けてみたくなるのが、俳人たちの知的好奇心です。
芭蕉のこの句、仮に、季語を「台風」に変えてみると、(音数の問題もありはしますが)とたんに気象ニュースみたいになってしまうのが、言葉の面白さ。下五「野分かな」という詠嘆は、吹き分けられる浅間の秋野を、映像として喚起させる力があります。
鶏頭ノマダイトケナキ野分カナ 正岡子規
「鶏頭」と「野分」、季重なりの一句。まだ丈も低く細い鶏頭を野分の風が容赦なくゆすっています。子規が病を養っていた小さな庭にも鶏頭は咲いていました。「鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規」は、評価の分かれる名句として俳句史上に屹立しております。
「野分」という季語を目にする度に、『枕草子』の一節を思い出します。「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ。」で始まる二〇〇段には、大木が倒れ、吹き折られた枝が萩や女郎花の上に重なっていたり、格子の一つ一つの枡目にわざとそうしたかのように木の葉が吹き込まれている様子が生き生きと描かれています。
この場面が、子規の「鶏頭ノマダイトケナキ」の句に重なってくる心持ちがするのは、「野分」という季語の力かもしれません。
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